測地線
宇宙は曲がりくねった流体
流体に曲がりくねったはおかしいかも
宇宙は密度の濃淡のある流体 っていうほうが
いいのかもしれないね
そこを物体は直線運動をしているというのが
アインシュタインさんの宇宙図なんじゃないかな
その密度の濃淡 空間の歪み 淀み具合を
計算で算出するのが『アインシュタイン方程式』
重力場の方程式の拡張理論だね
この原理はぼくの知識では説明しきれないな
なんといっても質量分布と運動
その中を運動している物体自体が作り出す時空の歪み
その時空の歪みの中で物体が
どのように運動するのかの計算なんだけど
運動する物体があるってことは
その運動によってまた
時空の歪みが変化するっていう
超複雑な計算だもんね
だから アインシュタイン方程式で
空間の歪みは計算できるってことにしておこう
その複雑な計算の結果
歪みが分かったことにするんだね
そうなると測地線の出番
物体は運動方程式通りにまっすぐに同一速度で進んでいく
まず このまっすぐが問題
なんといっても進路が歪んでいるんだから
物体本体はひたすら等速直線上に進んでいる
だけどそれを違うところから見れば
曲がりくねって動いていたり
速度が一定では無く動いていたり見えるんだ
山道を走っている車みたいなもの
運転している人からすれば
道路に従ってまっすぐ走っているつもりでも
外部から見ればうねった航跡になっちゃう
距離にしたって外部の見ている視点によって
変わっちゃうよね
高低差のある道を上から見れば
じっさいに走っている距離より
はるかに短くなるもの
距離が変われば 当然速度も変わってくる
だからそれぞれの立場の等速直線というものを
どの観測者から見てもわかるように
翻訳するというのが一般相対性理論なんだとおもうよ
まずは直線の定義を2点間の最短距離とするんだね
これが測地線ってこと
一般相対性原理
相対性理論はまずどのような立場の系でも
物理法則は同じだよ ということが大前提
だけどそれぞれの系にいる観測者から見ると
他の系の物理法則が違って見える
だからその間の翻訳をしようってことだね
というよりそれぞれ違う系においても
共通する言語を探そうってことかな
宇宙の構造を考えるとき
ニュートンさんは星々という『質量』によって
その運動が解釈できるとしていたんだ
『万有引力の法則』だね
アインシュタインさんは それに加えて
慣性力も宇宙の構造には関与しているとしたみたい
それが『等価原理』
ではその宇宙の構造変化を数値化するには
どうすればよいのか ってことで導き出されたのが
『アインシュタイン方程式』という
重力場の方程式の拡張理論なんだ
まず 運動量やエネルギー密度(質量なんか)を
アインシュタイン方程式で解く
その値を『測地線の方程式』に当てはめると
物体のコース 速度が算出されるってこと
これで宇宙の構造の力学部分での
全体構造が導き出されるってことだね
相対性原理
相対性原理っていうのは
どのようなところにいてもその場所での物理法則は同じだよ
ってことを前提にしているんだ
物理学 というより人間の認識限界が
物理法則を基準にして行われるのだから
当然の話
だけど人間なんて勝手なもの
どれだけ頭の中で理解していても
じぶんのいるところが中心 って考えてしまう
前にも言ったけど
天動説より地動説の方が
イメージしやすいってことは仕方が無いんだ
だけど周りを見渡せば
じぶんの理解している物理法則と
食い違っている現象に多々出会ってしまう
それを修正(翻訳)する方法が相対性理論なんだろうね
だれが どこで どのような状況で観測しても
慣性系だけじゃなく 重力場の中でも 加速系の中でも
同じ物理法則を導き出せる
それが一般相対性理論ってこと
宇宙は歪んでいる
歪んでいるというより宇宙を満たしている
『なにものか』の流体には密度の濃淡がある
そのことが大前提
ただ 気を付けなくっちゃいけないのは
ぼくみたいなただの人間が
歪んだ(濃淡のある)宇宙を考えるとき
靄のかかった水槽を外から見ている感じになっちゃう
じぶんもその中にいるという感覚は
持ちにくいんだよね
アインシュタインさんのもう一つの持論として
宇宙に絶対静止 もしくは絶対基準ってものを
認めていないこと
ぼくたちは渦や流れのある水の中にいる
魚みたいなものなんだろうね
その魚たちを外部から客観的に見ているものがいるとすれば
それって『神様』 みたいな存在なのかもしれない
論理則
広大な宇宙の話になると
経験則から導き出される
確定観測値なんてなかなか出てくるものじゃない
その不確定なものを
思考実験や思考観測で導き出すのが
理論物理学なんだろうね
ぼくたちのやっている妄想なんかじゃないよ
論理の組み立てとわずかな手掛かりの中から
事実を探し求める
やはりドラマや小説に出てくる
名探偵みたいなもの と言ったほうが正しいのかも
その限られた手掛かりの中から仮説を立てる
ここまでは哲学の手法と酷似しているよね
物理学 自然科学全般だけど
元々の思考方法は哲学から出発しているんだから
当たり前のこと
ただ自然科学を名乗るためには
仮説に対する検証が必要とされるという
枷がはめられるんだけど
多くの場合は検証実験が行われる
だけどあまりにも相手が大きすぎる(小さすぎても)場合
とてもじゃないけど検証できない場合が
多くなっちゃうことも避けられない事実
相対性理論にしても量子論にしても
現在のところ少しずつではあるけれど
観測データは出来つつあるけど
完全とは言えないよね
そこで出てくるのが論理則と言われる
数字という言語での理論構築
数字という言語は正しいものの積み重ね
その意味では計算結果に表れたものも
これまた正しいとされている言語体系
特にアナログ系の幾何学より
デジタル系の代数学によって導かれる数値は
ある種の『事実』とされるんだよ

